Arcadia -私家版Wizardry- #01 “Welcome Stranger”
右肘に軽い衝撃を感じて目が覚めた。
目の前には備え付けの大きな椅子の背中と、そこから伸びている白い小さな台。その上には空の紙コップが置かれていた。座席から微妙な振動が伝わってきた。どうやら電車に乗っているうちに眠ってしまっていたらしかった。
左手の窓から外を眺めると真っ暗だった。ときどきオレンジの光が瞬く間に後ろへ流れていくので、トンネルの中を走っているのだろう。
「失礼。起こしてしまったかい」
右隣から聞こえた。首を向けると三十歳前くらいの男性がいた。銀縁眼鏡の奥から細目がこちらを窺っている。こちらに肘でも当ててしまったのだろう。彼の左手首に巻かれたアナログ式の腕時計を一瞥した。午前七時十五分だった。
「あ、気にしないでください。
幼馴染でこちらに好意を寄せてくれていて反自然的なまでに世話を焼いてくれて人目もはばからずに弁当を作ってくれて毎朝かならず部屋まで起こしに来てくれるような美少女に愛を囁かれながら起こされたのでないのが残念と言えば残念ですが」
「それは申し訳ない」
「あんまり感情を伴っていない返事ですね」
「それでは滂沱の涙を流しながら猛り狂わんばかりの情熱を込めて謝罪しようかね」
「全身全霊を賭けて御免蒙ります」
「なかなか注文が多い」
「そもそも一番残念なのはそんな都合のよすぎる女の子が最初から存在しないという一点に尽きますし」
「とりあえずご愁傷様と言っておこう。しかしなんだね、初対面の相手に対するジョークとしてはいささかハードルが高すぎやしないかな」
「いえいえ、貴方を一目見たときからきっと僕の期待に答えてくれるものと信じていましたから」
「生まれてこの方これほどまでにありがた迷惑な信頼を寄せられたのは初めてだよ」
やったね初体験。
さて、馬鹿と無礼はこの辺にしておこう。
「それはともかく、そろそろ起きなくちゃいけない時間だったんです。むしろこっちがお礼を言わなくちゃいけないくらいです」
「そいつはどうも。しかし君みたいな子供が始発の電車に乗っているとはね。目的地は高校の寮か何かかい?」
首を横に振った。別に説明する義理はないけど、この男性がどんな反応をするか興味が湧いた。
「いえ。僕の行き先は、迷宮都市です」
そう言ったとき、窓から闇の帳が剥がされた。トンネルを抜けたのだ。
薄靄がかかったような明け方だった。窓にはのどかな田園風景が映っていた。そしてその奥に見える、青と銀の円錐。
霊峰富士。その麓に、現代に蘇った幻想が口を開けている。
今から八年前。アメリカ合衆国のとある天文マニアがいつものように望遠鏡を覗くと、今まで見たこともないし公式に発表されたとも聞いていない彗星がレンズに映っていた。新しい彗星の発見者は三人まで一般名称として自分の名前をつけることができる。彼はロバートという英語圏ではありふれた名前を持っていたので、少しひねってアナグラムのTrebor――トレボーと命名することにした(実際には国際天文連合の小天体命名委員会からの認可は下りなかったのだが、災厄の後には実名のままだと全世界のロバートさんに対して余りにも迷惑千万なネーミングになってしまったので一般レベルでは使用されるようになった)。そこで終わればどうということのない話だったのだが、残念ながらそうは問屋が卸さなかった。
トレボー彗星は大気圏でも燃え尽きずに富士山の北麓、いわゆる富士の樹海を直撃した。自称ノストラダムス研究者たちはトレボー彗星こそ恐怖の大王の正体だとこぞって主張していたが、幸いにも世界を滅亡させるに足るだけの衝突エネルギーは持ち合わせていなかった。せいぜい青樹ヶ原樹海の原始林と森林浴に訪れた観光客と自殺志願者の腐乱死体と付近市町村の貴重な観光収入とをきれいさっぱり吹き飛ばすだけで済んだ。粉塵を巻き上げて太陽光を遮断するような二次災害も誘発されず、自衛隊による救助活動も始まった。永遠に失われてしまったものを棚上げにすれば、全ての解決は時間の問題と思われていた。
しかしそれは、始まりの終わりに過ぎなかった。
被災者の救助活動に当たっていた自衛隊員が奇妙な報告を行った。奇妙な、と言ったがそれは現在を知らない当時にとっては本当に奇妙な報告だった。
妖怪。この文明開化と近代化の波に浚われて根絶やしにされたはずの怪異が被災地の付近で蠢いていたというのであった。その場所はトレボー彗星が大地に穿ったクレーターの中心部に開いた洞穴の周辺だった。後の調査でその内部は迷路のような構造になっていることが判明するのだが、とにかくその洞穴から妖怪が湧き出しているという報告だった。
実際のところ、この情報が一般に公開されたのはかなり後になってからだった。その報告を受け取った上層部は一顧だにせず黙殺したそうだ。その点について今ではずいぶんと叩かれているらしいけど、二十一世紀を目前に控えた当時の状況を鑑みればむしろ健全な対応だと擁護する声もある。
それはさておき、被災者の目撃談やジャーナリストたちの報道のおかげで世間も注目するようになった。その後は陰に陽にややこしい顛末があったようだけど、なんのコネも持っていない一般人の僕には詳しいことはわからない。僕が知っていることと言えば普通の日本人なら誰でも耳にしたことがあるような内容ばかりだった。
救助活動ではない自衛隊の出動。
正体不明の素粒子“マナ”の発見。
アメリカの介入。
デルタフォースの投入とその壊滅。
日米合同で行われた調査活動。
日本的な妖怪たちの西洋的な魔物への変貌。
洞穴を囲うように建設された研究施設と居住区画。
そして、二年前から始まった迷宮探索挑戦者の募集。
――そう。僕はその募集に応じてこの電車に乗っているというわけ。
迷宮探索の志願者と聞いた一般人の反応は、だいたい二つに分かれると聞いた。興味を抱くか、畏怖を覚えるかである。以前に級友や教員に打ち明けてみたけどけっこう的中していた。もっともたいていは後者だったけど。
この人はどうだろう、と考えていると、
「トレボー要塞にねぇ。君みたいな子供まで」
と心持ち身を乗り出してきた。どうやら前者のようだった。珍しい。ちなみにトレボー要塞とは迷宮都市の別称の一つである。なお、正式名称は独立行政法人迷宮開発機構・鳴沢迷宮センターという。あまり一般的ではないし、一般的になる必要もないと思われるほどに長ったらしい名前である。
「募集要項に年齢制限は書かれていませんでしたから」
「それは知っているよ。私の知人には迷宮の関係者がけっこういるから」
それを聞いてちょっと驚いた。今日び迷宮を知らない日本人はほとんどいないだろうけど、迷宮の関係者の絶対数というのはそんなに多くはないのだ。
改めて隣の男性を観察した。顔のパーツの一つ一つは平均点といえる。特に美男子というわけではない。しかしその顔立ちは上品に整っている。総体として穏やかな雰囲気を身にまとっている。たぶん見た目よりも年上なのだろう。スーツは身体にあったものを着こなしているという感じだ。就職活動中の大学生のようにスーツに着られているという印象からは程遠かい。身に着けている品々もこれといって目に付くような派手さはないけれど、いかにも洗練されているという印象を受ける。実は結構な値段なのかもしれない。思ったよりも立場が上の人なのだろうか。
もちろんそういった観察結果は口には出さない。
「妙な縁ですね」
「全くだ。それでも君くらい若い志願者は聞いたことがないね。いったい幾つだい?」
「十五です。二日前に中学を卒業しました」
「それじゃ若いはずだ。しかしなんでまたトレボー要塞になんて」
「中卒ですから。就職活動みたいなものですよ」
「口に糊するためだけだって? それだけの理由で迷宮に潜る人間は同じ理由でマグロ漁船に乗るよりも珍しいがね」
怪訝な顔をされた。言葉に詰まった。
よりにもよってなぜ迷宮都市なのか。それははっきりしている。何もかもが嫌になったからだ。自分を取り巻く環境の全てから逃げ出したくなったからだ。余計なことに頭を使う余裕すらなくなるほどの困難に対処していくだけの日々を過ごしたかったからだ。
もちろんそのあたりの事情を語るつもりはなかった。露悪趣味は好みじゃない。どうやって誤魔化そうかと黙っていると、
「失礼。どうやら立ち入ったことを訊いてしまったようだ」
と謝られた。慌てて手を振った。
「本音は冷やかしみたいなものですよ。」
「……ふむ、そう言うのならそういうことなのだろう。結局は人それぞれだしね。でも、迷宮はずいぶん危険だと聞いたが」
「素人がいきなり迷宮に潜るわけじゃなくて、その前にいろいろと試験があるみたいです。本当に危険だとされたらそこで弾かれますよ」
いくら切望しても無理なものは無理。たった十五年の人生だけど、それくらいはわきまえていた。――脳裏に過去が這い上がって来る。追い払う。気分のいいものじゃない。
「とにかくダメモト、半分は物見遊山に出かける気分で顔を出してみるつもりです」
そう韜晦しておいた。車内にアナウンスが流れた。次の駅で降りる必要があった。
「ふうん。ま、うまく試験をパスしたとしたら死なない程度に頑張ることだね」
そう。迷宮では毎日のように冒険者が魔物に殺されている。今の僕には望ましい環境だと言えた。
駅の構内に設置された地図に従ってバス停を探した。辺りを見回すと屈強な外人たちが一つ方向に流れていた。ついて行くと目的のバス停だった。冒険者の半数が外国籍、しかも兵役の経験者と言うのは事実らしかった。
最後尾に並んでバスの出発を待つ。しばらくするうちに僕の後ろにも列ができた。その誰もが僕よりも背が高く、年嵩だった。やたらと騒がしい。日本語の雑談も聞こえるが、聞いたことのない単語も飛び交っている。
僕たち探索志願者の集団の周りにはちょっとした真空地帯が出来上がっていた。そしてその外から遠巻きに視線が送られてくる。興味にせよ畏怖にせよ、とにかく自分たちとは違う何かを見る目をしていた。それはたぶん正しいのだろう。迷宮都市は異界だと聞いている。
バスのドアが開いたので乗車した。このバスは鳴沢迷宮開発センターへ直行するとアナウンスで説明され、次に外国語が流れた。たぶん英語だ。向こうでは英語が公用語だそうだ。
バスに揺られている間は窓の外を眺めていた。やがて市街地から離れ、建物もまばらにしか見られなくなっていった。三十分くらい経つと、目的地が視認できるようになった。それはちょうど下から見上げたダムに似ていた。バスが近づくにつれてその威容は圧迫の度合いを強めていった。
迷宮都市には城塞都市の別称があるように、二重の隔壁に囲われていると聞いた。そうだとすれば、今、僕が眺めているコンクリートの壁は、迷宮都市の外周に巡らされている外壁のはずだった。この壁は魔物が外界に出ることを阻むという建て前で建設されたらしいけれど、実際には不法侵入者を検閲する点で役に立っているそうだ。迷宮内の財産は日本国の所有物であるという理屈から、迷宮探索に参加できる権利は日本の他には特定の友好国にしか門戸が開かれていない。これが左寄りの新聞や放送局にはお気に召さないらしく、いろいろ物議を醸している。
バスが停車した。乗客たちに混じって下車した。アスファルトで舗装された道路の先に巨大な城門が設置されていた。その上に、ひどく不調和な感じのする扁額が掲げられていた。いったい何を考えているのかと訝りながら読んでみた。
意識して口元を笑いの形に歪めてみた。どうやら迷宮都市の住人は皮肉がお好きらしかった。
そこには中卒の僕にも理解できる英単語が二つ刻まれていた。
“Welcome Stranger”
――ようこそ異邦人――と。
- [2007/03/27 21:18]
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